福祉的支援はだれのものか~意思決定支援と成年後見制度~

私の信条

あなたが喫煙者だとして100歳まで元気に生きていたとする。ところが、数日前に病の床に伏してしまった。病床でもタバコを吸いたい。医者からも家族からも禁煙するよう言われている。「100まで生きた身体じゃないか。いまさらタバコをやめてどうする」。こんな考えが頭をよぎり、収納ケースからタバコをとりだそうとすると、買いだめしておいたはずのタバコが一箱もなくなっている。家族があなたの身を案じて、タバコを処分してしまった。気遣いなのかもしれないが家族だからといって無断で人の嗜好を禁ずる行為が許されるのだろうか。

 

鹿児島県の離島、徳之島に住んでいた泉重千代さんは、120歳まで生きて、ギネス認定された。黒糖焼酎を好んだが、死ぬ前に医者から酒を禁止され、家族が一切酒を飲ませなかったそうである。「酒が飲みたい」と言って死んだ(らしい。また本当は105歳くらいだったようでギネス認定が途中で取り消されている)。

 

あなたは、とある企業の会長をしている。社長はあなたの息子だ。息子はまだ若く、社長として頼りないところもあるが、あなたが築いてきた取引先との信頼関係で会社はうまく回っている。先日、あなたは人間ドックを受診して、健康に問題ないことが分かった。そして、もしものときに備えて「延命措置を望まない」という意思表示カードを作成した。病院のベッドで苦痛を長引かせるだけの処置をされるのが御免だからだ。

数日後、あなたは交通事故に遭い、植物状態になってしまった。意識が戻ることはないと医者が息子に伝え、あなたの生命維持装置について話し合いをしている。医者は、あなたがもっていた意思表示カードを示し、延命措置を望んでいないことを告げた。すると息子は、「お願いします。親父をあと1ヵ月、生かしてください」と頭を下げる。「親父がいま死んだら会社が倒産してしまいます!なんとか一日でも長く、親父を生かしてください」。息子の会社は、あなたの信用で成り立っている。あなたが死んでしまったら、息子は窮地に追い込まれてしまうだろう。

いまやあなたの身体には、医療器具とチューブがいたるところに接続されている。いわゆるスパゲッティ状態だ。いちばん望んでいない姿だ。息子があなたの人生の終わり方を決定していいのだろうか。

 

いままでみてきたものは、自分自身の行動に関して「他人により」意思決定がなされてしまった事例である。

これが子どもや障害者、認知症の高齢者となると事情はもっとハードになる。というのも、彼らは当然に他人により意思決定されてかまわないとみなされているからだ。

この小論では、意思決定の主体と福祉サービスのあり方、成年後見制度との関係を検討しつつ、現在、社会福祉支援の精神的支柱となっている「意思決定支援」について、議論していきたい。

〔意思決定支援〕

親や保護者、成年後見人が代行的な意思決定を行うことが本人の利益である・・・こういった考えは現在の社会福祉の領域では原則として否定されている。そして、留保条件をつけつつも本人の意思を限りなく尊重しなくてはいけないというのが、現代の社会福祉研究の潮流であり、障害をもつ当事者からの訴えである。

こういった一連の社会福祉の考え方を「意思決定支援」という。その定義は、以下である。「特定の行為に関し本人の判断能力に課題のある局面において、本人に必要な情報を提供し、本人の意思や考えを引き出すなど、後見人等を含めた本人に関わる支援者らによって行われる、本人が自らの価値観や選好に基づく意思決定をするための活動」(最高裁「意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン」より)

〔パターナリズム(父権主義)〕

他人に対して頼もしい父親のようにふるまうことを「パターナリズム(paternalism)」という。福祉的支援の文脈では、「過保護になんでもやってあげること」という意味合いで使用される。

適度なパターナリズムは必要である。子どもや認知症高齢者は自分で適切な判断ができない。親や後見人が彼らを守るため、代わりにやってあげるのは、当然である。第一、乳幼児や認知症高齢者に意思能力が存在するのか、という意見もある。

しかしながら、上記のような考え自体が障害当事者や認知症高齢者をパワレスな(無力な・権限を行使することのできない)存在にしているといえないだろうか。いままで福祉的支援が当事者の保護に焦点を絞りすぎていて(パターナリズム)、彼らのエンパワメントをなおざりにしていた。いいかえると、福祉的支援のパターナリズムが障害当事者や認知症高齢者の自発性と意欲を削いでしまい、障害の重度化を促進していた、ということである。

〔福祉的支援はだれのものか〕

さらに、非常に重要な論点の一つであるが、これまでの福祉的支援は、「家族や支援者のために」あった。つまり、障害者や認知症高齢者を介護する家族の負担を軽減するために福祉的支援が存在していたのである。はたまた、福祉職員が支援しやすいように、介護職員が介護しやすいように支援者の都合に合わせて、福祉サービスが制度的・物理的に構築されていた。

たとえば、「効率のよい食事介助」という福祉的支援があったとしよう。このときに問題となるのは「だれにとっての効率か」ということだ。福祉施設にとっての効率であるならば、短時間で大勢の食事介助ができることである。しかし、このような食事介助は、利用者に資する支援であろうか。

そもそも食事のとり方は人によって千差万別である。要介護の人といっても、その身体能力もそれぞれだ。短時間・大勢という効率性が優先されるならば、無理やり食べさせるということにもなりかねない。福祉施設の都合で利用者の個別性がさしおかれるとすると、その人に合った食事の仕方、生活の質が損なわれてしまう可能性がある。

〔福祉的支援は当事者のもの〕

福祉的支援がどちらの方向を向いているかが問題なのだ。結論としては、諸事情を総合的に検討して、(福祉サービスの)利用者主体の支援を確保する、ということである。福祉的支援は、理論上でも契約上でも当事者のものである。家族や支援者のものではない。意思決定支援とは、福祉サービスという手段を当事者(障害者、高齢者など)が手にして、彼らが主体的に利用可能にするための活動である。とくに障害当事者は、福祉サービスを自らが獲得できるよう戦ってきた経緯がある。このことは、後述する障害者権利条約に深く関係している。

〔「そうはいっても」批判〕

そうはいっても本人が何もできない以上、だれかが代わりにやるほかないではないか。現に認知症高齢者の介護サービス契約は、本人ではなく、本人の名前で家族が締結することが許されている。障害者の福祉サービスも同様である。子どもにいたっては、乳幼児のすべての決定は親や保護者に全面的にゆだねられている。

以上のような訴えは当然にして現れる。しかし、意思決定支援の立場では、認知症だから、知的障害だから、子どもだから、という理由で一律に意思能力が否定されてしまうという前提自体が誤っていると考える。当事者の意思能力の存在を推定し、植物状態になったとしても「意思がある」ことを前提として福祉的支援を実施する立場である。

以下を想像してみよう、昏睡状態に陥っている人に対して、①「植物状態」と推定されて行われるケアと②「植物状態でも意思はある」という推定のもと実施されるケア。心構えのうえでも実際のケアのうえでも両者には大きな隔たりがあるだろう。もちろん、本人を尊重したケアが行われるのは②の方だ。

意思決定支援をふまえたケアが、現場ですぐに実践できるかといえば、日々の業務に追われ、ついつい本人の意思を尋ねずに支援してしまうときもある。また子どもに関しては、「子育て支援」にフォーカスされてしまい、子ども自身の利益というよりも、親や保護者の支援が重視される状況は続いている。実践と理論がかけ離れていることは、今後の課題である。けれども最新の福祉情報に通じた福祉職員に関していえば、現在、意思決定支援が社会福祉領域で広く提唱されていることを、彼らはほぼ理解している。今後の福祉支援の展開に期待したい。

〔意思決定支援の背景〕

ところで、なぜ意思決定支援が広く提唱されるようになったのだろうか。意思決定支援が大きな潮流となり、日本の社会福祉業界で注目されるようになったのは、私見では2010年以降と思われる。

もともとは医療、とくに看護学の領域で、2000年以前からインフォームド・コンセントを実施するうえでの治療における意思決定という文脈で意思決定支援が研究されていた。福祉の領域では、おもに①障害者権利条約 ②成年後見制度 ③ACP(アドバンス・ケア・プランニング)などの文脈から意思決定支援が影響・普及していったと考えられる。とくに障害者権利条約での当事者意思尊重のインパクトは相当であった。以下でそれをみていきたい。

〔障害者権利条約〕

「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」は、2006年の国連総会で採択された。日本は、2007年に署名していた。しかし、国内法の不整備という理由から、しばらくの間、批准(国家が条約に拘束されることを認める手続き)には至っていなかった。障害者虐待防止法、障害者差別解消法の成立、障害者雇用促進法、精神保健福祉法の改正など国内法の基盤が整ったと判断され、2014年1月に日本は障害者権利条約を批准し、当該条約が発効した。

当条約は、21世紀初の人権条約であり、最新の障害観が反映されている。障害は、個人に帰するものではなく、社会が障害を作り出す(社会的障壁)という考え方で貫かれている。そして、画期的なスローガン、「私たち抜きで私たちのことを決めないで(Nothing About Us without us)」は、依然として障害者福祉の分野で大きな影響を与え続けている。

※障害者の権利に関する条約

https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html  (外務省)

〔障害者権利条約と成年後見制度〕

障害者権利条約では、①代行的な意思決定への強い反対 ②当事者の主体性の尊重 が記されている。その第12条では、法律行為と法的能力が中心的に述べられている。有名な第2項では、「締約国は、障害者が生活のあらゆる側面において他の者との平等を基礎として法的能力を享有することを認める」とされ、当事者の法的能力の完全な確保が謳われている。そして、第12条からは、成年後見制度でさえ、当該条約に抵触してしまうと読み取れてしまう。さまざまな説があるが、順当に条約を読み進めると第三者による意思決定の代行などもってのほかであると理解される内容なのである。

この条約が適切に発効されていると国際的にも認められるには、2000年から実施されてきた成年後見制度を放棄するしかないのか。あるいは、条約の解釈を変える、成年後見制度の運用を変えるなど独自理論で突き進むのか。当然ながら、日本は後者の道を選択し、成年後見制度の運用技術として意思決定支援を強調していくのである。

〔成年後見制度利用促進法〕

2016年に施行された成年後見制度利用促進法は、国民に制度をもっと積極的に利用してもらう目的で制定された。500万人とも600万人ともいわれる認知症高齢者の数に対して、成年後見制度は、わずか23万人(2020年12月末)の利用実績である。それなので制度利用のテコ入れを図るための法律であると考えられている。

しかし、成年後見制度利用促進法の「利用促進」の主眼は単なる利用者の増加という点にはない。「使い勝手が悪いから、利用者が増えない」という単純な話ではなく、障害者権利条約の要請をふまえて、当事者の意思決定を尊重した制度の再構築を図ることが本旨なのだ。

つまり、従来の成年後見制度の中心的な支援方法―後見人による代行的な意思決定―は、最後の手段として必要最小限の範囲で利用し、被後見人の意思を限りなく尊重する制度へと脱皮することが当該法律における成年後見制度の利用促進ということとなる。

成年後見の必要最小限度化が、すなわち制度の利用促進であるという逆説的な結論である。適正な制度に向けての再構築こそ、国民に資するものであり、それが利用促進に帰結するという考えなのだ。

障害者権利条約をふまえた意思決定支援の思想が成年後見制度に注入され、実務のガイドラインとして結実したものが、2020年10月30日に公表された「意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン」である。これは、最高裁判所、厚生労働省、専門職団体がワーキング・グループを立ち上げ、制作されたものである。このような取り組みをかんがみても、現在の日本の社会福祉の潮流がいかに意思決定支援に重きを置いているかがわかるだろう。

※「意思決定支援を踏まえた後見事務のガイドライン」について(意思決定支援ワーキング・グループ)

https://www.courts.go.jp/saiban/koukenp/koukenp5/ishiketteisien_kihontekinakangaekata/index.html  (最高裁判所)

〔おわりに〕

以上、近年の日本国内における意思決定支援の流れを概観してきた。海外ではイギリスの「意思決定能力法」がこの分野のパイオニアにして、非常に優れた法制度とされている。日本国内での今後の展開が楽しみである。

ただ、現在、何冊か出回っている成年後見制度の批判本の内容に関していえば、市民レベルでの意思決定支援の受容は、お寒いかぎりである。というのも、そういった類の本の論点は、「成年後見制度を利用すると家族の思い通りにならない」だからだ。

それだけではない。実際に私自身に寄せられる相談も「認知症の母がいうことを聞かない」、「ケアマネジャーが家族の希望に耳を貸さない」などが多い。

理想主義的だが立場の弱い人の声を聴こうという姿勢があれば、おのずから意思決定支援になるはずだと私は考えている。第一、家族のいうことを聞かせるのは、当事者への支援ではなく、当事者を家族に従属させているだけである。それは、支援ではなく、支配だ。

繰り返すようだが、福祉的支援は、家族のためではない。社会のためでもない。当事者のためのものである。家族や社会のためになるのは、本人の利益の副産物としてのみ許される。

意思決定支援の具体的方法論に関して今回は論じなかった。意思決定を尊重したケア実践には、多くの研究があり、現在進行形でそのノウハウが蓄積され続けている(たとえば、自分自身に不利益な意思決定をする利用者に対して、どのような支援を展開していくか、など)。

福祉的支援は当事者のものである。本人意思の尊重と意思決定支援の重要性に関しては、強調しすぎということはない。意思決定支援は、いまだ社会的な理解の途上であるが、今後の普及・啓発がいっそう進んでいくことを願っている。