今回は、利用者支援における「残存能力の活用」と「自立支援」について考えてみます。
たとえば、以下のような事例をみなさんはどうお考えになりますか。
・残存能力の活用になるので半身まひの高齢の利用者に20分かけて、着替えをしてもらった。
・今後の自立生活のために知的障害のある利用者に都営住宅の申請書類を本人の力で作ってもらった。数枚の書類に数日を要し、何回も失敗したがなんとか完成した。
〔パターナリズム〕
支援者が先回りして、手伝ってしまうことで結果として利用者の能力をスポイルして(損なって)しまうことがあります。利用者はできることを奪われて、自ら何もしなくなって最終的に廃用性症候群になってしまう。また、自分の役割を喪失してしまい、意欲が減退してしまう。福祉職員の支援が利用者の自立を害してしまうというわけです。
支援者がなんでも介入してしまうことをパターナリズムといいます。余談ですが、福祉専門職でパターナリズムを「パターン化した対応」とか「ステレオタイプな支援」と覚えている人がいます。これは誤りです。パターナリズムという言葉は、マタニティ(母性)の反対語のパタニティからきています。つまり「お父さん主義」です。つまり、「お父さんがよかれと思って、過保護に何でもやってあげちゃうこと」です。
〔本人意思の尊重〕
では、半身まひの高齢者に着脱介助をすることはパターナリズムでしょうか。それは一概に言えないでしょう。当然ながら福祉的支援は、本人ができることを代わりにやってあげることではありません。しかし、リハビリ目的以外で20分もかけて独力で着替えることを本人が望んでいるのでしょうか。服を着ることが本人の生活の主目的なのでしょうか。そうではありませんよね。本人らしい活動をするために着替えるわけです。本人の生活に関する意向、本人意思がちゃんと確認できた上で私たちは支援を実施するのです。
〔能力ではなく、意思に着目する〕
では、知的障害のある人に時間をかけて事務手続きをやってもらうことはどうでしょうか。私たちであれば、一時間程度で終わる事務作業を明らかにそれが苦手な人に何時間もかけてやってもらうのはいかがなものでしょうか。
考えるべきは、本人が独力での事務作業を望んでいるのか、それがどういった点で自立につながるのかということです。自立支援において、福祉職員は利用者の能力の程度にフォーカスしがちです。しかし、真に着目しなくてはならないのは、本人の意思と希望する生活です。本人意思を無視した自立支援は、虐待といっても過言ではありません。
〔まとめ〕
ヘルパーを家政婦のように考え、なんでもやってもらおうとする利用者も一部存在します。しかし、それは、福祉サービス自体の基本的な理解が不十分という問題であって、今回の議論とは別ものです。
本人らしい生活と本人意思を支援者がキチンと把握していれば日々の業務において「自立支援」と「残存能力の活用」の間で悩むことなどありません。
※これを書いた数日後に分かりましたが、「残存能力」って、いま言わないんですね。「現有能力」というそうです。そちらの表現のほうが明らかにいいです。とりあえず、タイトルは、「現有能力」にしておきますが、最新情報を知らなかったことを反省する意味も込めて、本文は「残存能力」のままにしておきます。