先々月、朝日新聞に「どう思いますか 緊張の訪問介護」という記事が掲載されました。「ヘルパーを利用したら、逆に疲れてしまう」という内容です。福祉サービスを使うことが逆に生活を損なってしまうという指摘でした。前回は、それに対する福祉専門職からの考察を行い、今回はその続きです。
最初に指摘しておきたいのは、「サービス利用のまずさ」です。サービスを使って、疲れてしまうのならば「使わなきゃいいじゃん」ということです。あるいは、「賢く使おう」ですね。
他人に家族の世話を手伝ってもらうことに抵抗があるのかもしれません。また介護を受ける要介護状態の人(これ以降「本人」と呼びます)に「自分の家族に介護してもらいたい」という希望があるかもしれません。しかし、このようなことに固執していたら、最終的には介護地獄に陥って、疲弊するだけです。「人に頼む」、「ヘルパーが介護する」という意識の転換が必要です。
それに加えて、ケアマネジャーやサービス提供責任者などケアの管理者と介護計画に関して話し合いをしなくてはなりません。思うに、「緊張の訪問介護」のほとんどがケアマネらとの打ち合わせが不十分の人たちではないでしょうか。話し合いを面倒くさがって、やらなかったり、いい加減にしていたりすると行き届いたケアができません。介護は、送り手と受け手の相互の打ち合わせを要します。ここがなおざりにされるとケア自体がほとんど成立しません。
今度は、福祉専門職向けに指摘をします。結局のところ、サービスを利用して、疲れるのはだれでしょうか。本人? 家族?
福祉サービス(医療も)は、第一義的に本人のためにあります。家族のものではありません。この点でくい違いが生じます。ヘルパーは、本人のためにサービス提供しているのに、家族は自分たちのためのサービスだと思っている。
パーソン・センタード・ケアや意思決定支援が福祉業界で提唱されています(知らない人はググろう!)。本人意思の尊重は、福祉の基本です。しかしながら、人間は関係性の束から成る存在です。本人に着目した支援は大いにけっこうです。ただ、周辺環境や家族関係を無視した支援は、バランスを欠いていると感じます。
一方で、介護する家族にも問題があります。本人の意思をぜんぜん尊重せず、「家族の言うことに従うのがケアマネだ」と考えている介護家族は非常に多い。
ですので、「緊張の訪問介護」は、支援者側の過度の本人主義と介護家族の家族主義の衝突ゆえに生み出されているものとも考えられます。
福祉職員は家族の意向も汲みつつ、その人らしい生活を送ってもらうように支援したいのです。介護保険が始まってからまる21年です。福祉サービスを利用して、ストレスになるなんて言いっこなしにしたいですよ。
「介護の社会化」と言われて久しく、介護事業所がいたるところにありますが、医療・介護・福祉の基本的な部分が案外、知られていないのかもしれません。