〔弟が認知症になった!〕
「親父、ヒロシ叔父さんの様子がおかしいよ。大至急、東京に見に来てくれよ!」
「ヒロシの様子がおかしいって。もともとあいつは変わり者だったから、いまさら何を言ってんだ」
「いや、親父、ちがうんだよ。これは老人ボケだよ。認知症。叔父さん、おれのこと分かんなくなってる・・・」
私、藤村幸一は75歳で秋田県在住。妻を5年前に亡くし、それ以来、一人暮らしをしている。40歳になる一人息子の敏則は東京の大学を卒業した後、秋田には戻らず、東京で就職。独身貴族で気ままに暮らしている。
ヒロシは、私の弟だ。私同様、妻に先立たれ、東京の下町、亀戸で一人暮らしをしている。ヒロシに子はなかった。
「敏則、ヒロシはまだ71歳だ。ボケるような年じゃない」
「何言ってんだ。親父も叔父さんも70過ぎだぜ。立派な年寄りで、いつボケてもおかしくないだろ。叔父さんの家、ごみ屋敷だよ。ひどいことになってる」
「そんなバカな。ヒロシは潔癖症で、いつ行っても家にはチリひとつなかったはずだ」
「じゃあ、写メ送るから見てみな。それよりヒロシ叔父さんのところにいろんな請求書が届いてるんだよ。ホント、大丈夫か心配だよ。とにかく、こっちに来てくれよ」
2日後、息子の要請を受けて、半日以上かけ、はるばる東京までやってきた。ヒロシと会うのは2年ぶりだった。敏則の言うとおり、弟は確かにおかしかった。
「失礼ですが、どちらさまですか」
「・・・お、おまえの兄の幸一じゃないか!ふざけるな!一体、どうしたんだ」
「兄貴・・・しばらく会ってないから。ちょっと忘れちゃったかもしれないね」
家の中はかつてのヒロシの部屋とは思えないほど散らかっていた。台所にはコンビニ弁当の箱とビニール袋が足の踏み場もないほど散乱。コバエが大量に発生していた。居間にはガラクタがうず高く積み上げられ、ごみ屋敷と称されても仕方のない状況。呆然としていると、
「親父、これを見てくれよ。昨日、記帳したんだけど」
敏則から差し出されたのは、ヒロシの預金通帳だった。3か月前には500万円ほどあった貯金が90万円程度になっていた。10日前に50万円をおろしている。
「ヒロシ、50万円も何につかったんだ!」
「俺もいろいろ金がかかるから、そのくらい持ってないと・・・ハルエさんにも払わないといけないし」
「ハルエさん? だれなんだ!」
「いやー、ハルエさんっていう娘さんがいろいろ世話を焼いてくれるんだ。俺の上司の娘さんなんだけど、メシを買ってきてくれたり、気が利くんだよ。おれの身体の心配もしてくれて健康にいいものを持ってきてくれてね」
「叔父さん、ハルエさんの連絡先を教えてよ。どんな人なの?」
「連絡先か・・・わからないなあ。こんな年寄りのところにきてくれる、いい人なんだよ。ハルエさんに小遣いを用意しとかないとな」
実弟の変貌ぶりにショックを受けながら、秋田に戻ったその翌日、息子の敏則から電話が入った。
「親父、ヒロシ叔父さん、アルツハイマー型の認知症だって。CTみたら脳の委縮がすごいみたい。かなり進行しているって」
なんてことだ。今後の弟の生活を誰が面倒みるんだ。敏則がヒロシの面倒を見てくれるのか。いや、息子には息子の生活がある。弟の世話をさせるわけにはいかない。今後俺が東京に行って、面倒をみるのか。ヒロシはおかしな女にひっかかっているみたいだし、一人でおいておけない。しかし、老体の俺が介護なんかできるわけない。そうだ、ヒロシの家は確かあいつの連れ合いとの共同の名義だった。2年前に話をしたとき、死んだ妻の相続もやってないとか言っていた。それより、ヒロシは生活費をどうしているんだ。年金はどのくらいもらっているのだろうか・・・。さまざまな心配が一気に噴出した。これから一体、どうすればいいんだ・・・。
〔家族が認知症になったときの問題〕
家族が認知症になったらどうするか。非常に悩ましい問題だ。というのも、介護だけではなく、「手続きができなくなる」という問題も発生するからだ。判断能力が不十分な相手と金融機関は取引してくれない。つまり、自分の預貯金を引き出せなくなってしまう。また契約の当事者にもなれない。老人ホームに入るための契約もできない。さらに悪質な権利侵害のターゲットになる可能性も高まる。認知症の高齢者を狙った消費者被害は非常に多く、だまされている当の本人に自覚がないため、発見されたときには無一文の状態ということもある。
〔成年後見制度とは〕
こういった問題を解決するために、「成年後見」はとても有効な制度である。判断能力が低下した本人に代わって、法律上認められた代理人(法定代理人)が認知症の人の権利と財産を守る仕組みだ。
この小論では、先のヒロシさんの事例をもとに制度の概要を見ていきたい。
〔判断能力低下による手続き上の問題〕
問題点をさらに詳しく見ていこう。ヒロシさんへの介護サービスはどうすればいいのか。介護保険を用いて訪問介護(ヘルパー)や通所介護(デイサービス)を利用するための契約に関しては、実は家族でも代行できる。しかしながら、介護サービスは介護のみにしか使えない。銀行から生活費を引き出すこと、自宅の固定資産税の支払い、亡妻の相続などヒロシさんに係るすべての事務手続きをフォローすることはできない。たとえ家族であっても代行できない事務が実は多い。前述の通り、認知症による判断能力の低下という診断が下された時点で、銀行は取引に難色を示す。判断能力のない者との契約は無効だからだ。なんとか銀行を説得して普通預金の口座からある程度の現金を引き出せたとしても、定期預金を解約することは許してくれないだろう。
では、ヒロシさんのキャッシュカードを使って勝手に現金を引き出してもいいのだろうか。ヒロシさんが暗証番号を忘れているかもしれない。暗証番号が分かったとしても本人の了承なしに勝手に預貯金を引き出すことはかなり危険な行為である。
〔成年後見人の選任と担い手〕
判断能力が低下した人に代わって、事務手続きや財産の管理を担うのが成年後見人だ。成年後見人をヒロシさんにつけるためには、親族が家庭裁判所に申込をしなくてはならない。これを「後見申立」という。親族によって後見申立が行われると家庭裁判所は、ヒロシさんの判断能力の状況が明記された医師の診断書やさまざまな書面を確認して(後見申立用の書面は家庭裁判所ホームページからダウンロードできる)、成年後見人を選任する。
成年後見人を家族が担う場合もあるが、現在、ほぼ8割は、親族ではない第三者が成年後見人を担う。彼らは主に弁護士、司法書士、社会福祉士の3職種。なぜ家族ではない者が担うのか。確かに兄の幸一さんやその子どもの敏則さんが後見人を務めるという選択肢もある。成年後見人はヒロシさんの事務手続きの支援、財産管理をしなくてはならない。それなりの労力を要する。成年後見人には認知症のヒロシさんの身の回りに配慮してあげるという義務を課されるため、月に1回は本人を面会しなければならない。秋田に住む高齢の幸一さんが後見人を担うのは困難な話である。甥にあたる敏則さんが担うことも可能だ。ただ、忙しい40代の社会人が面倒な事務作業を行う余裕がないかもしれない。成年後見人を第三者の専門職に委ねることが多いのはそういった事情もある。
〔成年後見人の財産管理〕
成年後見人はヒロシさんのためのみに働くことになっている。ヒロシさんの意思を尊重することが第一である。したがって、家族の意思は基本的に反映されない。
財産管理といっても相続人(兄の幸一さん)のために財産を残すなどということは当然ながら想定されていない。認知症を患おうともヒロシさん名義の財産は、親族や相続人のものではない。
成年後見人に財産を管理されると親族は蚊帳の外に置かれてしまった気がするかもしれない。よく批判される点だが、成年後見人が選任されると親族は口出しできなくなってしまうのである。とはいえ、親族が認知症の人の財産を勝手に使い込んでしまうという事態も非常に多い。成年後見人による不正が問題になっているが、不正のほとんどが親族後見人によるものである(親族後見人の不正事例は2018年度は全体の約93%)。
〔成年後見制度のメリット〕
成年後見人が選任される利点は、ヒロシさんの生活自体がしっかり守られることだ。成年後見人はヒロシさんの生活に配慮しなければならない(身上保護の義務)。また、消費者被害に対応するために、①取消権 ②同意権という強い権限を有する。取消権は、成年後見人が重要な契約を問答無用で取り消せる権限だ。同意権は、成年後見人の同意なしには契約締結ができないという権限である。悪徳商法の契約を締結させられたとしても取消権で取り消すか、同意権を用いて後見人の同意なしに行った無効な契約であると主張することができる。
〔その費用〕
後見申立の費用は印紙代等で7~8千円程度。申立の書類を弁護士や司法書士に作成依頼すると10~20万円の作成代を求められる(依頼しないで自分でも作れる)。また成年後見人の仕事への月々の報酬額は家庭裁判所が決める(年払い)。ヒロシさんの資力と成年後見人の仕事を勘案して、裁判官が決定する(報酬の基準額は家庭裁判所ホームページから見ることができる)。その人の財産規模にもよるが、だいたい月々1~3万円程度である。その人に財産がない場合、東京では行政が報酬を支払うという仕組みが確立されている。収入や財産がない人も利用できるのである。
〔さいごに〕
成年後見制度の概略をヒロシさんの支援に即して眺めてきた。制度に係る詳細事項(判断能力の度合いに応じて、保佐、補助という類型があるなど)は概観ということもあり、今回あえて割愛した。さらに成年後見制度の詳細を知りたい場合は、各自治体の地域包括支援センターや成年後見センター等に照会してほしい。ちなみに東京都はすべての自治体に成年後見制度の推進機関が設置されている。
成年後見制度を活用することにより、ヒロシさんが自分らしい生活を取り戻してほしい。認知症になっても人生の主役は自分である。どんな主役も脇役がいなくては輝かない。成年後見人という脇役を配して、人生という舞台で輝かしく主役を演じることができれば、制度としての面目躍如である。