福祉を語る言葉~まっとうな福祉理解のために~

私の信条

近年、「福祉」を語る場面で違和感を抱かされることが増えてきました。とくに気になるのは、社会保障や支援制度の基礎的な知識すらあやしいジャーナリストや社会学系の文筆家が、さも日本の福祉が「絶望的な状況」にあるかのように描き出す風潮です。

現場の問題や制度の限界を指摘することは重要です。しかし、実態を丁寧に見ず、「介護崩壊」や「社会保障の闇」などセンセーショナルな言葉で福祉を語る人々に対して、とてもうんざりしています。

こうした言説には、社会保障制度に関する適切な理解と、現場での制度運用についての正しい認識が決定的に欠けています。制度は決して完璧ではありません。まずい部分も必ずあります。それを最小化していくのが社会の責務です。現状の上っ面をなぞって、利用者・専門職・行政の弱点部分をクローズアップし、日本の福祉全体が「終わっている」かのように語ることは間違っています。

もうひとつ、最近目立つのが、認知症の高齢者や障害のある方の言動を、過剰に哲学的な対象として語る風潮です。たとえば、言葉にならない表情や行動に「世界の真理」や「人間存在の本質」といった意味づけを与え、それを感動的に語る文章を目にすることがあります。一見、深い理解を示しているように見えるかもしれませんが、それは自分自身の感性に酔っているだけだと思います。

当事者の姿を自分の思想や物語に勝手にあてはめることは、当事者の尊重ではまったくありません。本当に必要なのは、制度や支援体制を通じて、その人がその人らしく生活できる環境をつくることです。抽象的な言葉よりも、具体的な配慮と支援、制度の改善が求められているのです。

私はいまでも現場の職員です(と勝手に考えています)。福祉制度と実践の地続きを肌で感じています。福祉を表層的に語る風潮には、看過できない危機感を持っています。というのも、理念と現実の間で揺れているという点で社会保障制度は、ほかの制度と同じだからです。間違いのない実践などありません。また、福祉サービスを利用する方々も制度を運用する支援者も、一般市民です。福祉の仕事は、とりわけ尊い仕事ということはなく、普通の仕事です。

そうした視点を欠き、福祉を一種の題材として消費するような風潮は、制度や支援の本質を見誤らせるものです。そして、市民の熟議を経ぬままに「現行の社会保障の制度は、おかしい。ぶっ壊せ!」という主張は、民主主義を損なうものであると私は考えます。

もちろん、現場には多くの課題があります。制度の狭間で支援が届かない人、職員の人手不足や待遇の低さ、家族に過剰な負担がかかるケースなど、課題は山積です。だからこそ、制度を正しく理解し、必要な改革を進める議論が必要です。そのためには、現場に根ざした知識と、利用者や支援者、制度全体への先入観を排したリスペクトが不可欠です。

福祉は、誰もが関わる可能性のある営みであり、特別な世界ではありません。現場を知らない学者や評論家が語るのではなく、日々の実践に関わる人たちがもっと声を上げていく必要があります。私は、現場の経験を持つ者として、今後も「福祉を語る言葉」の質を問い続け、制度の本質的な理解と利用者の尊重を広げていきたいと考えています。

〔追記〕

このところ福祉関係の啓蒙書に何冊か目を通しているのですがヒドいものが多く、ほんとうに暗澹たる気分になります。それに加えて、小説やエッセイなどで福祉関係のトピックが出てきたときの雑な表現にもいやな気分になります。まあ、一般的にはみな福祉制度のことなど興味ないのだろうけど、少なくとも文章を書くのが仕事ならば、「取材してから書け!」、「制度の内容をググれ!」と怒りを感じてしまいます。だからこのような文章を書くことになりました。

うーん、思うに、元気な人たちは自分がケアを受けると思っていないから、社会保障の話なんてどうでもいいんだよね。だから文章中に不正確な言葉や内容が使われていたとしても気にしない。気になるのは現場の職員だけかもしれない。

ほんとうは福祉の現状を正確に理解して、もっとよくしていくことを議論するのが大切なんだけど、それは地味だし、細かい作業なんです。それよりもざっくりとした将来的な不安をあおる方が話題になりやすい・・・とても残念なことですな。